「水俣曼荼羅」雑感

 映画「水俣曼荼羅」と原一男監督の表現について、2/23の上映までの期間に、いくつか考えた事を書いておきたい。(北方シネマ代表:竹川大介)

【水俣曼荼羅】北方シネマにて2/23(祝)封切上映:予約受付中
https://kitagata-cinema.blogspot.com/2021/12/053.html
【写真】©︎疾走プロダクション

【水俣曼荼羅(1)】

最初の試写を見たときは、冒頭の行政とのやりとりのシーンで身構えた。どこか居心地の悪さを感じる。

今までの水俣病の歴史や、裁判の背景を知っている人は、これでもまだ「おとなしい」というかもしれない。しかし、事情もわからずはじめて見た人は、ここでいきなり「ひいて」しまうのではないかと少し心配になる。

「業務上たまたまここにいるだけです」なんて姿勢をありありとみせながら、役人たちは淡々と事務的なコメントばかりを繰り返す。彼らの言葉は、何かを誤魔化しているようにみえるし、必死に言質を取られまいとしているようにみえる。

水俣病が発生した後に生まれ、この仕事に就くまでは、たぶん学校で習う以上のことはほとんど知らなかった役人たちは、この公害に対する責任が自分達にあるとは思っていないだろうし、仮に患者たちに同情したとしても、それと仕事とは別だと信じているのだろう。いや、患者たちの側に身を置くことの大変さを知っているからこそ、彼らはなおさら近づけないのかもしれない。

それにしても彼らの仕事とはなんだろうか?

そこにいる彼らは、いったいだれを、あるいはなにを守ろうとしてしているのだろうか?この矢面に立っている役人たちの、後ろにいるのは誰だろうか?チッソの役員?それとも政治家?

県や国の看板を背負ってそこにいる役人たちは、熊本県県民や日本国民のために働く公僕である。おおやけのしもべ。であればその主人は、熊本県民や日本国民である私たちだ。

そして、もし彼らが必死に守ろうとしているのが、私たちなのだとすれば・・・、いらだつ水俣の人たちの追及に感じた、あの居心地の悪さの理由がわかる。

知らないことを理由に、起きている現実から目を背け、存在を無視し、無関心をよそおった、ひとごと感。

水俣病に憤慨し、患者たちの苦しい状況に共感し、彼らの側に立とうとしている私たちは、会見の役人たちの後ろに構えた原一男のカメラによって、いきなり自分の立ち位置を確認させられるのである。

【水俣曼荼羅】北方シネマにて2/23(祝)封切上映:予約受付中
【写真】©︎疾走プロダクション


【水俣曼荼羅(2)】

曼荼羅という言葉には、どこか善悪の彼岸を感じる。

「ゆきゆきて神軍」のころから原一男は、映像の中に感情を描いてきた。カメラの力によって感情を引き出し、感情に語らせる。事実や正義そのものよりも、そこから溢れ出す情動を執拗に追いかける。

それは、決して心地よいものばかりではない。正義と不正に二分して理解できるほど、人間世界は単純なものではないからだ。

言葉とは裏腹の、それぞれの思惑や、不審な素振り、行き所のない諦念、虚偽、沈黙、疑念、葛藤。時にはカメラを持つ原一男自身も自分の感情を隠したりはしない。観るものは、そんな心の裏にある形にならないどろどろとしたものを、なんとか理解しようとする。

そうした映像表現に対する好き嫌いが、この映画の評価に関わってくるだろう。おそらく映された当事者たちも困惑するほどの露骨さに、それを観るものたちは、どこまで耐えられるだろうか。

善悪の向こう側で、被害者は加害者になり加害者は被害者になる。善人と悪人、頭の「良い」人間と頭の「悪い」人間が、ある瞬間に入れ替わる。どこまでが冗談なのか、どこまでが本気なのかわからなくなる。なにを信じて、なにを疑えばよいのかわからなくなる。でも、それでよいのかもしれない。

怪しげな人々や、無関心な人々や、誠実な人々や、悶えながら生きている人々。情に溺れ、人生を楽しみ、小さな幸せに泣く、それが人間世界の曼荼羅図なのだ。

そしてもし、そうした彼岸に、語られている言葉の空虚さや、押し込められた情の深淵さを感じることができるのであれば、この映画は、単なる公害被害者のその後の人生の映画ではなく、私たちの生につながる普遍性を獲得するに違いない。

【水俣曼荼羅】北方シネマにて2/23(祝)封切上映:予約受付中
【写真】©︎疾走プロダクション


【水俣曼荼羅(3)】

1989年から水俣を撮り続けてきた、NHKの映像ディレクター吉崎健のドキュメンタリー映像を4本送ってもらい、学生たちと観た。

取材時期や対象が重なる原一男と吉崎健の映像で、それぞれの水俣病がどう描かれているのかとても興味があった。それ以上に、90年代以降の水俣病をめぐる状況について、私自身が知らないことや分からないことが多く、水俣曼荼羅を上映するにあたって、ぜひそれを予習しておきたかった。

30年におよぶ吉崎健の仕事は、そうした一連の背景を知るうえでとても参考になった。NHKの戦後史証言アーカイブスで、彼の作品やインタービュー映像が公開されているので、ぜひ観てほしい。https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001820008_00000

また、テレビ制作者として彼がなぜ水俣病に取り組もうと考えたのか、制作者研究NEO <地域にこだわる>に、彼を取材した記事がある。

吉崎 健(NHK) 前編 ~水俣 "魂の深か子"に出会って~https://www.nhk.or.jp/bunken/research/domestic/pdf/20190701_8.pdf

吉崎 健(NHK) 後編 ~"水俣"を終わったことにさせない~https://www.nhk.or.jp/bunken/research/domestic/pdf/20190801_6.pdf

この記事を読んで、ぜひ上映前にお会いしたいと思った。原一男の描いた水俣病の世界を、同じ場所にいた彼自身はどう感じるのか。私は大事なことを見落としていないか、映画の情宣をすすめるために、あらかじめ確認しておきたいことがいくつかあった。

先週の金曜日に、1回目の試写が見られなかった運営メンバーのために2回目の試写を開催した。急な話ではあったが、その時に吉崎氏を北九州市立大にお招きし、ともに6時間の映画を観た。上映の合間や、終了後に、学生たちとともに吉崎氏と話をする貴重な機会を持つことができた。

吉崎健と私はほぼ同世代である。彼が水俣にとりくみはじめた1989年は私が大学院で初めて石垣島のフィールドに向かった年でもある。いわば私の研究者としてのフィールドでの日々と、彼の映像制作者としての日々は重なる。その後、1996年に私は北九州に赴任した。

1970年代の高度経済成長期の日本で育った私たちには、公害病に関する共通した原風景がある。工場の煙突から出る煤煙、川や海に垂れ流される排水、奇病に苦しむ患者たち。そうした映像を当時まだ小学生だった私たちは、さまざまな機会に見せられてきた。

学生時代には石牟礼道子の苦海浄土も読んでいたし、土本典昭の一連の映画も観ていた。しかし、すでに1990年代ごろには、これらの公害問題はおおよそ解決している、という雰囲気があったと思う。実は私は、アイリーン・スミスの弟と同じ研究室にいた。だが彼と水俣について深く話したことは、ほとんどなかった。

1995年の政治決着の直後に九州に赴任した私は、まだ水俣病が終わっていないことを知る。吉崎氏もまたその後を追いかけていた。そして原一男の撮影も、このあたりから始まる。

この原一男の水俣曼荼羅は、いろいろな意味で不親切な映画だ。一度観ただけでは、それがいつのどんな背景の出来事なのかよく分からない。多くの患者たちが描かれているわけでもないし、元凶であるはずのチッソという会社もほとんど登場しない。

20年におよぶ取材を、6時間にまとめているのだから、仕方がないところもあるだろうが、原一男があえて事実関係を詳しく説明をしていないせいでもある。彼が描きたいのは、公害の歴史ではなく、水俣病の周辺で生きる人々の姿なのだろう。

2度目の試写は、最初の時よりもずっと短く感じた。その間に見ておいた吉崎健の作品によって、私が背景を理解できていたからかもしれない。しかし最初の印象が、それで薄らいだわけではない。2月23日の本番の上映では、私はこの6時間の映画を3回見ることになる。にもかかわらず、もう一度観て、まだ確かめたいことが残っている。

私と吉崎氏が同世代であると書いた。原一男と私たちの間に、水俣病の胎児性患者たちがいる。1990年当時、すでに30年を生きてきた水俣病の胎児性患者たちもまた、あれからさらに30年を生き、今は60代となっている。

それがどんな状況であっても「人が生きる」ということはどういうことかを、この映画は伝えようとしている。

【水俣曼荼羅】北方シネマにて2/23(祝)封切上映:予約受付中
【写真】©︎疾走プロダクション

【水俣曼荼羅(4)】

葛藤解決あるいは紛争解決という言葉がある。しかし、この「解決」とはなにを指すのだろうか。

公害の原因が特定され、病気との因果関係が示され、裁判に勝訴し、責任の所在が明らかになり、患者が認定され、補償に決着がついたとしても、壊されてしまった身体は元に戻らないし、失なわれてしまった人生を取り返すこともできない。

たとえ、どんなにお金を積んでも、どんなに謝罪されても、本当に欲しいものは戻ってこない。

水俣病は末梢神経の感覚障害や機能障害だといわれていた。しかし有機水銀が破壊したものは、中枢神経だった。外から計測することが困難な目に見えない脳の障害。意識の中枢が壊れ、本人すら自覚できない認知の障害。

しかも、そんな人たちがいったいどれほどいるのかすら実際にはわからない。新しい知見による厳密な認定基準で調査をすれば、膨大な人数に患者は増えるかもしれない。もしかするとかつての加害者たちも、差別してきた者たちも、すでに病んでいるかもしれない。

人としての人格や意欲が損なわれることの悲劇と、それに対する償いは、あまりに重たい葛藤である。それはすでに、わたしたちの想像をはるかに超えた、神や哲学の領域かもしれない。その葛藤に耐えられないために、語りあうことを拒否し、共に生きることを諦めてしまうのかもしれない。すべてに目をつぶり、許し、忘れ、消し去りたくなるかもしれない。

しかしそれでも原一男は、あばく。人と人を出会わせることで、そこに起きる化学反応を撮りつづける。出会うこと、関わることが、彼の映像表現における絶対的な方法論なのだろう。

カメラがなければ出会うはずのなかった人たちどうしが、原一男によって出会わされ、その瞬間に生まれる情動を、私たちはスクリーン越しに観せられる。怒りや憎しみだけではなく、愛や欲のようないびつさからも、人々が目をそむけ忘れたがっている葛藤の本質が、明るみにされる。あえて周辺を描き、核心を伝えないことで、かえってそこに隠されているものが浮き彫りになる。

傷ついた者たちもまた、さまざまな情動の中で、彼らの人生を生き続けている。

戦争が終り、街が復興を遂げても、戦争によって傷ついた人々は、戦争を背負って生きなければならない。「ゆきゆきて神軍」で原一男はそれを描いた。

公害が終り、街が復興を遂げても、公害によって傷ついた人々は、公害を背負って生きなければならない。「水俣曼荼羅」で原一男はそれを描いた。

さて、そんな葛藤や紛争に対して、社会は、あるいは私たちは、なにができるのだろうか。葛藤解決や紛争解決と言うが、償いようのない葛藤や紛争に対する「解決」とは、いったいなにをさすのだろうか。「水俣病に終結はない」と映像の中で誰かが語った。いくら裁判に勝っても、どんな謝罪や補償を受けても、それは解決にはならない。

それどころか、なんどもなんども打ち寄せる波のように、あやまちは繰り返され、ちいさな期待すら裏切られる。もし傷をうけた者たちと、共に生きようと思うのであれば、話を聞き、そこに居続け、修復を試みながら、終わりのない葛藤を抱き込むしかない。忘れることの報いは絶望であり、解決への試みにすら希望はない。

それでも最後に、もう一つだけ書いておかなければならない大事なことがある。それは、次の戦争を起こさないこと、次の公害を起こさないこと、そうした「未然の解決」についてである。

原発を放置し、戦争を賛美する「愚かな」人々に、伝えておこう。ほんとうの葛藤は、戦争や事故が終わったときから始まり、そのあと果てしなく続くのだ。そしてその果てしのない葛藤は、戦争や事故が起きる前から、もうすでにわかっていることなのだ。

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